辺りに夕ご飯のいい香りがしてきた頃、僕は河川敷に到着した。
いつも一人でそんなに遠くまで行かないから、なんだか胸がドキドキした。
足も疲れたし、とりあえず休もうと思ってちょうどいい場所を探して歩く。
ずいぶんと低い位置に降りてきた太陽に向かってちょこんと川辺に座ると目の前にオレンジの世界があった。
空も、川も、全部がオレンジでなんだかちょっと涙が出てきてしまった。
僕の後ろには家に向かって長く伸びる黒い影がある。僕の影は家に帰りたいらしい、なんて薄情なヤツなんだろう。
僕は絶対に家に帰らないし、帰りたいとも思ってない。僕は一人で生きていくんだ。
気持ちも新たにオレンジ色の太陽に僕は誓った。
その太陽が見えなくなってくるとあたりもなんだか暗くなってきて僕は少し心細くなってあとりをつれて来なかったことに後悔した。
あとりがいればどこに行っても怖くないのに。
かさかさと草を震わせて吹く風に背中の毛を逆立てて僕は辺りをきょろきょろと見回した。
――よかった、何もない。
安堵した瞬間不吉な声が後ろのほうから聞こえてきて僕はばっと振り返った。
僕の視界に入った僕に向かって走ってくる大きい犬の姿に驚いて周りもよく見ずに逃げようと走り出したら、
川岸で滑って一瞬の浮遊感の後に早春の冷たい水が僕を襲った。
生臭い川の水をもがいた拍子に飲んで、僕はびっくりしてパニックに陥った。
「ママ、助けて」と言おうとするのだけれど、口に水が入ってくるだけだった。
必死に泳ごうと手足を動かしても、川の流れに流されて僕は浮き沈みを繰り返した。
もう駄目だと思った瞬間視界に入ったあの犬に優しく銜えられて、僕は冷たい水から助けられた。
僕を銜えた犬は悠々と川岸に上がって、安全なところまで行くと僕をやわらかい草むらにおろした。
「ヨル、大丈夫か?」と顔を舐められて、ほっと安堵した。僕を助けてくれたのはあとりだった。
あとりが後から走ってくるママを呼ぶ横で、僕はプルプルと水気を払った。
「あとり、葉琉(よる)は?」
息を切らせてまだ少し遠くからママが呼びかけてきたのに、あとりは僕を高く銜え上げてママに無事なことを伝えた。
ちらりと見えたママの腕に、アサはいない。
あとりは僕をママに渡すと薄茶色の長い毛からぽたぽたとたれる水を盛大に飛ばして、ママの傍に大人しく座る。
ママはそんなあとりの頭をいい子いい子してから、僕の脇の下を持って顔の辺りまで持ち上げた。
「無事でよかったわ。全くこの子は心配かけて、もう…」
情けなくて、「ごめんなさい」と耳を垂れて恐る恐る顔を上げるとそこには優しいママの顔があった。
寒さで震えると僕の体をそっと両腕で包んで温めてくれる。
ママの腕に抱かれて、家に帰ると玄関先にパパがいた。
「潤子ちゃん、葉琉は見つかった?」
いつもおっとりしているパパも、なんだか少し焦っているようだった。
「このとおり、ずぶ濡れだけどね」
僕は腕の中から顔をあげてパパと呼んだ。
そうか、とパパはめがねの奥で目を細めると僕の頭を撫でてからママの隣で同じように濡れているあとりの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「あとり、ありがとう。葉琉を助けてくれたのかい?」
あとりは嬉しそうに尻尾を振った。あとりはパパが一番みたいで、ママのときよりも嬉しそうだ。
家族との再会を一頻り味わった後、僕とあとりはお風呂に入れられた。
もう水はこりごりだったけど、川に落ちて汚れて冷え切った体をさっぱりとほかほかにしてくれたのでお風呂に文句は言わないことにする。
同じ濡れるでもぜんぜん違うんだなと感じた。
お風呂で体も温まって、おいしいご飯を食べると睡魔はすぐにやってきた。
僕はいつもの様にあとりの暖かい体温にすっぽりと包まれて丸くなるとすぐにうとうととし始める。
「ねえ、紫苑。葉琉は何で家出なんかしたんだろ?」
意識の遠くでママが、パパに話しているのが聞こえてきたけれど半分眠った僕の頭では何を話しているかわからなかった。
「それはね、潤子ちゃん。きっと葉琉は藍紗に焼餅を焼いたからだよ。何で、ママはアサのことばっかりかまうんだろう、僕のこともちゃんとかまってよ。ってさ」
パパがなんだか僕の本当の気持ちをしゃべっていたみたいだけれど、僕の意識は完全に眠りについて朝まで起きることはなかった。
翌朝、僕が起きてキッチンに行くとママはアサより先に僕のご飯をテーブルの横に置いてくれた。
「おはよう、葉琉」
その朝から、僕のアサに対する思いは少しずつ変わっていった。
今日もアサが盛大に泣くから、僕はベビーベッドの柵を越えてアサのぷくぷくほっぺをざりと舐める。
アサはしょっぱかった。