『さかきねぇ、しいちゃんのぴあの大好きだよ』
満面の笑みを浮かべて、精一杯背伸びして榊は窓枠から顔を出した。
お隣に住む椎ちゃんはいつもピアノを上手に弾いていて、それを聴くのが楽しみだった。
二階の一番西の部屋と椎ちゃんのピアノが置いてある部屋はとても近くて、夜はいつもそこから椎ちゃんと話した。
椎ちゃんのお母さんは、有名なヴァイオリニストで世界中を回っていたから椎ちゃんは時々榊の家で過ごした。
『僕も、榊の描いた絵大好きだよ』
いつも優しい椎ちゃんは、人一倍引っ込み思案で舌足らずの榊の話を最後まで根気よく聞いて何かとほめてくれた。
『えへへ、ありがと』
うれしそうに笑う榊の頭を撫でてくれる綺麗な手が大好きだった。
『お前がしっかりしてないから、あの子がああいう風に育つんだ!!』
『あなたは、いつもそうやって―――私にばっかり…』
いつの頃からか、絶えなくなった両親の喧嘩に榊は耳をふさいで二階の西の部屋に駆け込んだ。
そこで椎ちゃんがピアノを弾き始めるのを待った。椎ちゃんの奏でる音があれば安心できた。
『榊、こっちにおいで』
そうやって差し伸べてくれた手を取って、椎ちゃんの部屋に行った。
『椎ちゃん、なんでお父さんとお母さんはあんなに喧嘩するんだろう。お父さん、お母さんのこと嫌いになっちゃったのかなぁ』
『そんなことないよ。喧嘩するほど仲が良いって言うし』
『そうなの?』
不安そうに聞く榊に椎ちゃんは、『そうだよ』と微笑んだ。
あの頃から、ピアノの下で丸くなって眠るのが好きだった。
椎ちゃんの奏でる音に包まれるような感じがしたから、『うるさくないのか?そんなところにいて』とピアノの下で眠る榊に、椎ちゃんはよく訊いた。
静寂は苦手だった。余計なことを考えてしまうから、考えたくないものが榊にはたくさんあった。
『榊、最後は何がいい?』
いつもねだったのはゴルトベルク変奏曲。不眠症の伯爵とその弟子ゴルトベルクのために作られたというその長い曲が榊は大好きだった。
いつも最後にリクエストした。そうすることで少しでも長く椎ちゃんの音が聴けたから。
「…かき、榊。指されてるよ、起きて」
つんつんと潤子に腕を刺されて、いっきに現実に引き戻される。まだ、完全に起きていない脳に教師の声が入ってくる。
「美島、美島 榊」
「うん?」
「うん、じゃないだろう。まったく、授業中に寝るんじゃない。立って30ページの5行目から教科書を読みなさい」
そうだった、今は国語の時間だった。寝ぼけ眼をこすって文字の羅列を一文字一文字読み上げていく。
頭の中は、まだ昔の思い出の中にいた。何気ない日常もあの頃は楽しかった。
そんな頭で読み上げた教科書の中身は当然何のコトだかわからなかったが、まあよしとしよう。後で優秀な潤子に教えてもらえばいい。
退屈な授業も、掃除も終わって藤と潤子と昇降口を出た。三人並んで歩く。
「で、結局榊は何でクラシックを聴いていたの?」
昼休みに聞きそびれた榊への問いをもう一度潤子が口にした。
「んー、別に」
「別に、じゃないだろ。
どうせ今日も愛しの椎ちゃん、思い出してたくせに」
気のない返事をする榊に代わってニヤニヤと相好を崩した藤が答える。
「ウルサイナ」
「椎ちゃんって誰?」
頬を膨らましてぶっきらぼうに返した榊の声と潤子の疑問が重なる。
「加賀 椎名だよ。この前公開になった映画『エチュード』に楽曲提供して有名になったピアニスト」
ふて腐れてだらだらと歩く榊に代わって藤がすらすらと澱みなく答える。
「あぁ、あの人ね。うちのお母さんがカッコイイって騒いでたけど…。それが榊の椎ちゃん?」
「そうだよ。それが榊の幼馴染の椎ちゃんだよ。なぁ、榊」
「へぇ、すごいわね」
盛り上がる二人の横で榊は一人沈んでいた。
そうなのだ、椎ちゃんは有名になってしまったのだ。もうお隣の椎ちゃんじゃなくなって、気軽に会えなくなってしまうのかと思うと、椎ちゃんの成功を素直に喜ぶことができなかった。
椎ちゃんが留学して隣の家からいなくなってもう5年も経っているのに、今更そう感じることが少し可笑しかった。もう5年も会っていないのだ。
どこにでもいる様な平凡な女子高生と世界で認められたピアニスト。住む世界が違う、それがこの寂しさの原因かも知れなかった。
「椎ちゃんは、椎ちゃんなのに…」
「でも、もう榊だけの椎ちゃんじゃないんだな。これが」
無意識にこぼれた呟きに対しての軽い藤の言葉が榊の無防備な胸に突き刺さった。
「わかってるよ、そんなこと…」
いつものように返そうと思ったのだけれど、言葉は尻すぼみになってなんだか視界がぼやけてしまった。不覚だ。
「ど、どうした。いつもの榊らしくないぞ」
そんな榊の様子にいつもふざけている藤さえも焦った声を出した。
「藤ぁ〜。なに、榊泣かせてるのよ!ちゃんと謝りなさい。
榊、大丈夫?藤のいうことなんか気にしちゃだめだからね」
藤に対しての態度とは正反対の態度で榊に優しく諭す。
「う〜、藤なんか嫌いだ」
泣くような事じゃないのに泣いてしまった自分が情けなくて恥ずかしくて、榊はわざとボソッと呟いた。
「うっ。今の榊の言葉、グサッときた。潤子、慰めて〜」
「嫌よ、藤はかわいくないから。わたし、かわいい子にしか優しくしないの。ねぇ、榊」
大げさに悲しんでよよっと泣く振りをした藤に、容赦ない潤子に榊は笑った。
「そうだ、藤はかわいくないから泣いちゃだめ」
「何だよ、二人して。そんなこというんだったら、明日からお菓子の差し入れしないぞ」
湿っぽい空気を払拭して、いつもの三人に戻ったところで榊の家に続く角を曲がった。今日は、榊の家に行く予定だったのだ。
「藤、悪かった。だから、明日からも差し入れよろしく」
「何だよ、差し入れが目的かよ!」
二人の前に回って不平をもらす藤の背後から、さわやかな風が吹いた。その風に、一緒に笑っていた榊の声が途切れて怪訝な顔つきになる。
「榊?」
風に乗って聴こえてきた懐かしい音にいてもたってもいられなくて駆け出した。家の門扉を開けて、一直線に二階の西の部屋を目指す。
昔と同じように窓を開けて、昔と同じように明けられた窓から覗き込んだ。
「椎ちゃんっ」
弾いていた手を止めて、振り向いた顔はずいぶんと変わっていたけれど。
「榊、ただいま」
昔と変わらない笑い方に、安堵を覚えた。
窓枠を越えて、椎ちゃんに抱きつく。
「おかえり、椎ちゃん」