足元に飛び出してきた茶色い塊にびっくりして立ち止まった。
よく見ると、茶色いふわふわした毛の子犬。
きょとんとした目で僕を見上げてから、僕のにおいを嗅ぎはじめた。
「これこれ、危ないから庭から出るんでないよ」
そう言って生け垣の間から出てきたのは鶴さんだった。
鶴さんは、僕の家のすぐ近くに住んでいて僕は幼い頃よく『おばあちゃん、おばあちゃん』といって遊んでもらった。
鶴さんの旦那さんが亡くなった今は、一人暮らしをしている。
「おや、紫苑君じゃないかい。久しぶりだねえ、よかったらお茶飲んでいきなさい」
鶴さんは、僕に気が付くと満面の笑みを浮かべてくれる。
いまだ僕の匂いをふんふんと興味深そうに嗅いでいる子犬を僕の胸に抱き上げた。
「おまえ、鶴さんとこのコなのか? 危ないから、突然飛び出してくるんじゃないぞ」
今日は僕が歩いていたから止まれたものの、これが自動車や自転車だったら大変なことになっていたんだぞ、と顔の前に抱き上げて気持ちを込めて言ってやると茶色い子犬はワンと鳴いた。
それから、生け垣の中に消えていった鶴さんを追いかけて僕も庭に入って行く。
「鶴さん、この子も中に入れていいの?」
懐かしい感じのする玄関まで行ってはたと気付いた。そういえばこの子犬はどうしたらいいんだろう。
「一緒にあがっておいで、ちゃんと手は洗うんだよ」
台所のほうから聞こえてきた鶴さんの声に僕は返事をして子犬を抱いたままあがった。
そのまま洗面所のほうに行って子犬の足と自分の手を洗って居間に行った。
「紫苑君は、大福が好きだったね。お茶は熱いから気をつけて飲むんだよ」
子犬はお茶と一緒に出された大福に興味があるのか鼻先を近づけてくるので、こらこらと取り上げる。
「これは、ダメ」
しっかりと子犬の瞳を見つめて言い聞かせる。人間の食べ物は犬にとって害のあるものが多いのだ。大人しく言うことを聞いてくれた子犬を膝の上に僕は大好物の大福を食べる。
しっかりとお茶まで飲んで、一息ついてから僕は大人しくしている子犬の頭を撫でた。茶色い毛はまだふわふわとしていて心地よかった。
「鶴さん。この子、名前は決まってるの?」
鶴さんに尋ねると、ずずっとお茶を飲んでそうだねえとつぶやいた。
「私の名前は鳥に由来しているからね。うちの子になったんだしお前も鳥の名前にしようかね」
鶴さんが手を出したので子犬を渡す。優しい眼差しで子犬を見つめると一度頷いた。
「あとり。お前の名前は、あとりだよ。寂しい思いをすることがないようにね」
「あとり?」
なじみの無い言葉に僕は聴きなおした。
「そう、あとり。あとりっていう鳥はね、紫苑君。集団で暮らすんだよ」
だからお前はきっとひとりにならないよ、と鶴さんはあとりと命名された子犬を優しい手つきで撫でる。
「なんだかかわいい名前だね、鶴さん」
鶴さんに撫でられて気持ちよさそうにしている子犬にその名前はぴったりだと思った。
それから二週間、寒さも厳しくなってきた十二月のある日。帰宅した僕に言った母さんの言葉にびっくりした。
鶴さんが怪我をしたというのだ。
今帰ってきた道を急いで引き返し鶴さんの家に行くと、右足をギプスで固められた鶴さんとその息子さんが出迎えてくれた。
「鶴さん、大丈夫?」
「そんなに大したこと無いのよ。ちょっと階段で転んだだけだから」
心配しないで大丈夫よと笑う鶴さんに、鶴さんの息子さんがおふくろと声をかけた。
「もう年なんだから、無理するなっていつも言ってるだろ。親父が死んで一人きりなんだし、そろそろ俺たちと一緒に暮らそうよ」
本当に心配していたのだろう、息子さんは真剣だった。
「何言ってるんだい、まだまだ大丈夫だよ。あとりもいるし、お前のところには行かないよ」
ねえ、あとり。そう言って鶴さんは横で心配そうに見上げているあとりの頭を撫でる。
「でも、こんな足じゃひとりで生活するのは無理だろ。とりあえずお袋の足が治るまで家で暮らさないか?」
「でも、あとりはどうするんだい? 連れて行けないんだろう?」
だから、ひとりで大丈夫という鶴さんに、はあとため息をついて息子さんは頭をかしかしと掻いてゆっくりしていって下さいと言うと奥に引っ込んで行った。
「鶴さん、なんで一緒に暮らさないの?」
「この家から離れたくなくてねえ。おじいさんとの大切な場所だし」
あとりを見つめて鶴さんは言った。
きっと僕も思い出の詰まったとても大切な場所からはなかなか離れることが出来ないと思う、でも今は鶴さんも一人で暮らすのは大変だろう。
「それに今はあとりもいるし、私がこの家を出て行ったら世話する人がいなくなってしまうからね」
「あとりが心配なら、僕が責任もって世話するよ」
だから無理しなくても大丈夫だよ、と鶴さんに言った。
鶴さんは、じゃあ考えておくねと言ったので、僕は鶴さんの怪我に障らないように家に帰った。
その後、息子さんの家に行くことに決めた鶴さんから連絡があって僕はあとりを受け入れる準備をした。息子さんはあの家を残すことに同意したらしい。
息子さんとの同居が決まってからはめまぐるしくて、あっという間に鶴さんが出発する十二月二十四日になった。
「紫苑君、あとりをよろしくお願いね」
息子さんの後部座席に座った鶴さんは、あとりを腕に抱いた僕に丁寧に頭を下げた。
「ずっと大切にするよ、鶴さん」
安心させるように力強く鶴さんに宣言すると、息子さん夫婦が頭を下げてよろしくお願いしますと言った。
鶴さんを乗せた車が出発すると、あとりは悲しそうに一声鳴いた。鶴さんとの別れを理解したんだと思う。
鶴さんの家から僕の家に来てからもあとりは時折鶴さんのいたあの家の庭に行ってじっとしていることがある。
あの家には今、鶴さんの孫夫婦が住んでいて、いつあとりが行ってもいいようにしておいてくれる。
あの家にいるときのあとりは、鶴さんがいつも座っていた縁側の前でしっぽをゆっくり動かして鶴さんを思い出しているようだった。
そんなあとりの様子を思い浮かべていると、あとり用の玄関の鈴が鳴ったので僕は玄関まで迎えに行った。
「おかえり、あとり」